作品づくりの核となった恩師の言葉
社員が大切にしている言葉を紹介する連載企画「Quotes」。第39回は、メディアビジネス部 コンテンツプロデュースグループ 藤村さん。動画や写真などの素材をコンテンツに昇華させていく藤村さんが、“いい作品”とは何かを気づかせてくれた恩師の言葉を紹介します。
ただただ写真を撮ることが楽しかった時期から、少し撮影が上手くなって写真を仕事にしたいという気持ちが膨らみ、どうして自分は写真を撮っているのかと悩んでいた頃に恩師にかけられた言葉です。
上手い写真を撮らなくていい。もっといい写真を撮りなさい
今思うと当時の自分は「もっと写真を上手に撮れるようになりたい」、「どうすれば写真が上手くなるか」ばかり考えていて、「いい写真=上手な写真」としか思っていませんでした(※ここでいう“上手な写真”とは、構図が整っていて光や色味が綺麗な写真を指します)。
なので、実際にこの言葉をいただいた直後は「この人は何を言っているんだ?」と思いつつ、上手い写真≠いい写真なのであれば“いい写真”とは、どういう写真なのかと自問自答していました。
なので、実際にこの言葉をいただいた直後は「この人は何を言っているんだ?」と思いつつ、上手い写真≠いい写真なのであれば“いい写真”とは、どういう写真なのかと自問自答していました。
言葉をもらった頃に撮っていた写真
■“いい写真”とは何かについて深く考えるきっかけとなった出来事
この言葉をかけられてから半年くらい経ったタイミングで、自分の思ういい写真とはどういうものなのかを言語化できるきっかけとなる大きな出来事がありました。
自分が撮影した写真が、遺影に使われたのです。
そもそも撮影した写真が使われるということは知らず、葬儀場に行って遺影に使われていると気づいた時のことは、今でもはっきりと思い出すくらいに衝撃的な出来事でした。
ただその写真は自分ではあまり満足できる写真ではありませんでした。もし遺影になることを知っていたならば、もっと上手く撮れたらよかったのにという気持ちで、その日の他の記憶があまり残っていないくらいに衝撃的で悔しかったことを覚えています。
気持ちとは裏腹に、葬儀の後にご遺族の元に行くと「写真撮っててくれて、あの表情を遺してくれててありがとうね」と声をかけてもらいました。その時に、僕は自分1人の力じゃ撮ることができないという難しさと、1つの作品を誰かと創り上げることに魅力を感じて「人」を撮っていたにも関わらず、僕自身の基準だけで写真の上手い下手や、いい写真か否かを判断しているということに気づきました。
自分が撮影した写真が、遺影に使われたのです。
そもそも撮影した写真が使われるということは知らず、葬儀場に行って遺影に使われていると気づいた時のことは、今でもはっきりと思い出すくらいに衝撃的な出来事でした。
ただその写真は自分ではあまり満足できる写真ではありませんでした。もし遺影になることを知っていたならば、もっと上手く撮れたらよかったのにという気持ちで、その日の他の記憶があまり残っていないくらいに衝撃的で悔しかったことを覚えています。
気持ちとは裏腹に、葬儀の後にご遺族の元に行くと「写真撮っててくれて、あの表情を遺してくれててありがとうね」と声をかけてもらいました。その時に、僕は自分1人の力じゃ撮ることができないという難しさと、1つの作品を誰かと創り上げることに魅力を感じて「人」を撮っていたにも関わらず、僕自身の基準だけで写真の上手い下手や、いい写真か否かを判断しているということに気づきました。
■作品は永遠に残るもの
その葬儀以降、言語化した感覚を持ちつつ、カメラのファインダーを通してたくさんの人と出会う中で、徐々にふわふわとしていた自分の中で大切にしている“いい写真”の定義が徐々に定まってきました。きっと写真はシャッターを切った瞬間から誰かの思い出になって、懐かしいものになって行くのかなと思います。
一眼レフだろうがiPhoneだろうが「10年後も見たい」と思える写真が自分の中での“いい写真”であり、その写真を見返したときにその日の気温や湿度、会話などを思い出せる写真を“遺して”いきたいと思うようになりました。
撮ってる相手には言わないですが、ポートレートを撮るときはその日撮影した写真が遺影になっても悔いのない写真を“遺す”こと、それが自分の作品作りの核となりました。
ただ誤解しないでもらいたいこととして、人を撮ることは「目的」じゃないし、撮る相手が誰でもいいわけではない。ただ自分の感情が動く日常の瞬間を撮り、ただ好きなものを撮っている。それが人だっただけであり「その人」だから撮っている。そして、感情が動き自分が表現できるものが「写真」だっただけということです。
一眼レフだろうがiPhoneだろうが「10年後も見たい」と思える写真が自分の中での“いい写真”であり、その写真を見返したときにその日の気温や湿度、会話などを思い出せる写真を“遺して”いきたいと思うようになりました。
撮ってる相手には言わないですが、ポートレートを撮るときはその日撮影した写真が遺影になっても悔いのない写真を“遺す”こと、それが自分の作品作りの核となりました。
ただ誤解しないでもらいたいこととして、人を撮ることは「目的」じゃないし、撮る相手が誰でもいいわけではない。ただ自分の感情が動く日常の瞬間を撮り、ただ好きなものを撮っている。それが人だっただけであり「その人」だから撮っている。そして、感情が動き自分が表現できるものが「写真」だっただけということです。
ここ数年超えられない一枚
■最後に
今、ありがたいことにやりたいことが仕事となり、得意なことを活かせる業務を担当しています。
それはどれだけ遠回りをしても「いいものを世の中に発信したい」という核を、決してぶらさずに過ごすことができたことが大きかったからだと思います。
自分の好きや得意を仕事にするということは自分のエゴだけでは成り立たないですし、時には自分の信念を少し曲げてでも作る必要があるということを実感しています。でも、自分が制作をする時に核になっているものはいつまでも変わらないものであり続けたいですし、10年後も見てもらえる動画や記事を制作していきたいと思います。
それはどれだけ遠回りをしても「いいものを世の中に発信したい」という核を、決してぶらさずに過ごすことができたことが大きかったからだと思います。
自分の好きや得意を仕事にするということは自分のエゴだけでは成り立たないですし、時には自分の信念を少し曲げてでも作る必要があるということを実感しています。でも、自分が制作をする時に核になっているものはいつまでも変わらないものであり続けたいですし、10年後も見てもらえる動画や記事を制作していきたいと思います。
参照:
濱田英明「ひろがるしゃしん」(https://note.com/hideakihamada/m/ma8d4bc5f821b )
GENIC「あれやこれやのポートレート会談」( https://genic-web.com/articles/2793291)
濱田英明「ひろがるしゃしん」(https://note.com/hideakihamada/m/ma8d4bc5f821b )
GENIC「あれやこれやのポートレート会談」( https://genic-web.com/articles/2793291)
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