厳しい昭和上司から得た戒めの言葉
社員が大切にしている言葉を紹介する連載企画「Quotes」。 第20回に登場していただくのは、グローバル推進室 ヤナガワさん。今回のQuotesは社会人2年目で海外赴任を任され、壁にぶち当たった時に上司からいただいた言葉です。
これは以前いた職場でのお話です。
ともすると「時代錯誤」な話かもしれませんし、人によっては「当たり前」と思われるかもしれませんが、当時の私には身に染みて響いた言葉であり、その後の仕事に対する姿勢に深く影響したのでご紹介いたします。
新卒社会人2年目だった私はある日、専務室に呼ばれました。同期が300人以上いるような老舗の大手企業ですので、当時の私は「目立つよりも真面目に生きよう」という考えのもと毎朝7:00頃には出社し、真夏にもネクタイを外さず、自分がイメージする昭和のサラリーマンの如く、ただただ懸命に働いておりました。
悪目立ちするような行いは一切なく、また仕事でも取り立ててヘマをした覚えもなかった訳ですが、配属時の挨拶以来話したことのない専務様に突然呼び出されたとあっては、「何か知らないところで大変なことをしてしまったのではないか?」と大きな不安を感じていたことを今でも覚えております。
そんな漠然とした恐怖心に覆われるなか上司に先導されるがままに専務室へと向かい、気付けば畏怖する大王の目の前におりました。いよいよかと覚悟を決めると、専務からは意外な一言が。
「君、ドイツに行ってくれないか。」
後に聞くと元々赴任が予定されていた中堅の先輩社員による突然の離反や、業績悪化による担当部署に対する専務の過剰なまでの糾弾など、様々な事情が相まってまだ2年目の私に「あいつは真面目だから」という理由だけで白羽の矢が立ったそうです。
海外系の部署にいたことから「いずれは海外の支社で働くこともあるか」程度にはぼんやりと認識しておりましたので、まさかこのような年次で赴任するとは思わなかったものの、専務からご指名頂いた有難いお話であると捉え(真面目)二つ返事で快諾いたしました。
結論から申し上げますと、ドイツ支社での1年半はこれまでの社会人生活で最も辛い時間でした。
初めての海外生活であったことに加え、これまでとは異なる事業セクターとなったため実質ゼロベースで仕事を学び、かつ早々に戦力にならねばならないというプレッシャーもありましたが、最たるは支社長との不仲です(最後はいつも人間関係ですね)。
ともすると「時代錯誤」な話かもしれませんし、人によっては「当たり前」と思われるかもしれませんが、当時の私には身に染みて響いた言葉であり、その後の仕事に対する姿勢に深く影響したのでご紹介いたします。
新卒社会人2年目だった私はある日、専務室に呼ばれました。同期が300人以上いるような老舗の大手企業ですので、当時の私は「目立つよりも真面目に生きよう」という考えのもと毎朝7:00頃には出社し、真夏にもネクタイを外さず、自分がイメージする昭和のサラリーマンの如く、ただただ懸命に働いておりました。
悪目立ちするような行いは一切なく、また仕事でも取り立ててヘマをした覚えもなかった訳ですが、配属時の挨拶以来話したことのない専務様に突然呼び出されたとあっては、「何か知らないところで大変なことをしてしまったのではないか?」と大きな不安を感じていたことを今でも覚えております。
そんな漠然とした恐怖心に覆われるなか上司に先導されるがままに専務室へと向かい、気付けば畏怖する大王の目の前におりました。いよいよかと覚悟を決めると、専務からは意外な一言が。
「君、ドイツに行ってくれないか。」
後に聞くと元々赴任が予定されていた中堅の先輩社員による突然の離反や、業績悪化による担当部署に対する専務の過剰なまでの糾弾など、様々な事情が相まってまだ2年目の私に「あいつは真面目だから」という理由だけで白羽の矢が立ったそうです。
海外系の部署にいたことから「いずれは海外の支社で働くこともあるか」程度にはぼんやりと認識しておりましたので、まさかこのような年次で赴任するとは思わなかったものの、専務からご指名頂いた有難いお話であると捉え(真面目)二つ返事で快諾いたしました。
結論から申し上げますと、ドイツ支社での1年半はこれまでの社会人生活で最も辛い時間でした。
初めての海外生活であったことに加え、これまでとは異なる事業セクターとなったため実質ゼロベースで仕事を学び、かつ早々に戦力にならねばならないというプレッシャーもありましたが、最たるは支社長との不仲です(最後はいつも人間関係ですね)。
支社長は当時58歳で、永年海外の支社を渡り歩いてきており、上層部からの信頼も大変厚い方でした。性格はまさに絵に書いたように「勤勉」を体現するタイプで、曖昧な情報を嫌い、上下関係・言葉遣いに厳格な方でした。この性格に加えて海外生活が長いためか少々日本の常識とズレている面もあり、下からは「取り残された昭和のガンコ親父」のようなイメージを持たれておりました。
思い返せば入社当時の「真面目な自分」を演じ続けることが出来ていれば支社長との関係性は違ったかもしれませんが、入社2年目で海外赴任するという前例のない人事異動に当事者はいつしか天狗になり、言動の端々から次第に周囲の嫉妬を買い、煙たがれて孤立していくまでにそれほど時間は掛かりませんでした。
そんな悪評が付いた状態で赴任し、更には反省するわけでもなく相対していたわけですから(当時の私は自分の素行が悪くなっていることを自覚しておりません)、支社長との関係はすぐに拗れ、気付けば呼び出されては怒鳴られる日々が始まっておりました。
仕事で成果を出して見返そうにも出来ることは新人レベル。知識もなく、前任者から引き継いだ得意先を守るので精一杯。周囲との人間関係は破綻し、何をするにも協力者がおらず。
「営業の最前線にいるのに、自分は何の役にも立てていない……」
積み重なる焦りから謙虚な気持ちはとうに失せ、心は荒れていくばかりでした。
赴任から1年程経過したある日のことです。その日は重要な得意先との年間契約の交渉の大詰を行うべく支社長と出張しておりました。リーマンショックの影響もあり大変厳しい交渉が続いておりましたが、支社長が幾度となく細かな調整を本部と行い、また先方とも調整を重ねてきた末に、新たな為替レートの算出システムを見出すことで何とか合意点を見つけることができました。私は担当者ではあったものの、交渉の進め方はほとんど支社長が設計しており、書記に徹する自分にまたしても無力さを感じておりました。
交渉は無事に合意をすることができ、安堵と共に宿泊するホテルのレストランで食事をしていた時です。交渉が成立した為かいつもより些か上機嫌な支社長と飲み交わしていると、話題が徐々に私のダメっぷりに及びました。
「おまえは本当に未熟だ」と口癖のように言われる言葉から「あぁまた説教タイムか……」と観念すると、「だがその未熟さを理解できれば成長できる」と、いつもとは違った様子の言葉が続きました。「おや?」と思っていると、支社長は続けてこのようなことをおっしゃいました。
思い返せば入社当時の「真面目な自分」を演じ続けることが出来ていれば支社長との関係性は違ったかもしれませんが、入社2年目で海外赴任するという前例のない人事異動に当事者はいつしか天狗になり、言動の端々から次第に周囲の嫉妬を買い、煙たがれて孤立していくまでにそれほど時間は掛かりませんでした。
そんな悪評が付いた状態で赴任し、更には反省するわけでもなく相対していたわけですから(当時の私は自分の素行が悪くなっていることを自覚しておりません)、支社長との関係はすぐに拗れ、気付けば呼び出されては怒鳴られる日々が始まっておりました。
仕事で成果を出して見返そうにも出来ることは新人レベル。知識もなく、前任者から引き継いだ得意先を守るので精一杯。周囲との人間関係は破綻し、何をするにも協力者がおらず。
「営業の最前線にいるのに、自分は何の役にも立てていない……」
積み重なる焦りから謙虚な気持ちはとうに失せ、心は荒れていくばかりでした。
赴任から1年程経過したある日のことです。その日は重要な得意先との年間契約の交渉の大詰を行うべく支社長と出張しておりました。リーマンショックの影響もあり大変厳しい交渉が続いておりましたが、支社長が幾度となく細かな調整を本部と行い、また先方とも調整を重ねてきた末に、新たな為替レートの算出システムを見出すことで何とか合意点を見つけることができました。私は担当者ではあったものの、交渉の進め方はほとんど支社長が設計しており、書記に徹する自分にまたしても無力さを感じておりました。
交渉は無事に合意をすることができ、安堵と共に宿泊するホテルのレストランで食事をしていた時です。交渉が成立した為かいつもより些か上機嫌な支社長と飲み交わしていると、話題が徐々に私のダメっぷりに及びました。
「おまえは本当に未熟だ」と口癖のように言われる言葉から「あぁまた説教タイムか……」と観念すると、「だがその未熟さを理解できれば成長できる」と、いつもとは違った様子の言葉が続きました。「おや?」と思っていると、支社長は続けてこのようなことをおっしゃいました。
「未熟なところを見つけて身につける。これをやっていかないと、世界では戦えない。ひとつのことだけやっていて勝てるわけがない。日本にいれば営業だけやっていても誰かが他のことをやってくれるが、海外ではそうもいかない。営業もやって企画もやって経理や人事もやれなきゃいけない。それくらいの気でいないと相手にされない。おまえはこの交渉で自分の未熟さを分かったんだから埋めてみろ。」
決して褒められているわけではないのですが、どこか励まされているような気がして、思わず涙しそうになったのを覚えております。おまえも多少は認められるようになったと、そのように言って頂けたように感じられ、まるで心の呪縛がほぐれたような心地よさがありました。
その後、私と支社長の関係は少し改善され、以前よりは平穏な会話が出来るようになりました。定年を控えていたことから支社長は間もなく日本へ帰任し、私もしばらくして追うように日本へ帰ることになりました。帰国後は部署が異なったため仕事で関わることはなくなりましたが、無事に定年の日を日本で見届けることが出来たのは良かったと思います。
私はその後現在に至るまで海外に関わる仕事や新事業に関わる仕事を担ってきましたが、経験を増す毎に支社長の言葉は実感と共に感じられます。昨今のジョブ型雇用とは逆をいくような面もありますが、何か未開の地へ踏み出すような挑戦をせねばならない時ほど、自分自身が持つ馬力の差は文字通り推進力の差に繋がると考えます。
苦い経験と共に、私の中では生涯のモットーになった言葉です。
私はその後現在に至るまで海外に関わる仕事や新事業に関わる仕事を担ってきましたが、経験を増す毎に支社長の言葉は実感と共に感じられます。昨今のジョブ型雇用とは逆をいくような面もありますが、何か未開の地へ踏み出すような挑戦をせねばならない時ほど、自分自身が持つ馬力の差は文字通り推進力の差に繋がると考えます。
苦い経験と共に、私の中では生涯のモットーになった言葉です。
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